2023.06.29ブログ
私という存在と気づきの関係 担当:石神
六月の雨に濡れた紫陽花はひときわ艶やかに映ります。
うっとうしく感じる梅雨の季節を華やかに彩ってくれています。
私たちはこの自然界に存在するさまざまな対象物を目にして、育ってきました。鉱物も植物も、動物も、そして無限に広がる宇宙も、みな秩序を持った組織体として存在しています。
梅雨の合間に晴れた夜空を眺めながら、惑星たちが一糸乱れぬ秩序の中にある世界を構成し、その世界の中で私たちが暮らしているのだと思うと不思議な気持ちに包まれてしまいます。
自分なりに考えたり、思ったり、感じたりしてこの自然界に存在するあらゆるものを解釈して自分の心を育ててきました。
私たちはこの地球上で自分が満足のいくように半ば器用に、あるいは、少しばかり身勝手に生きて来ています。
この自然界での体験を通して自分が解釈することとその本質について自覚することの間には隔たりがあります。
この隔たりは「気づき」という心の世界で明らかになっていきます。
この気づきはなぜ生まれてくるのでしょうか。気づかせている存在があるからです。気づかせている存在は自分を支配している意識です。この意識は自分自身をも客観視しています。
自分自身が正しいと考えてきたことや、過去の体験の解釈さえも、新たな気づきによって、本質的なところに書き換えられてしまいます。しかし、この気づきをもたらす意識(普遍的自己)の存在は消し去ることも書き換えることもできません。
私たちの心の中に存在する無限の宇宙も、一糸乱れぬ秩序(真っ正直な姿)で構成されているのでしょう。
この真っ正直な意識は私たちそのものの存在なのでしょう。
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